「ホクトに入ってはホクトに従え」は成り立つのか・・・ある日の思考
以前、テレビ番組の企画でこんなのやってたね。
有名予備校講師が高校もまともに行ってないという勉強嫌いの青年たちに自分の担当教科で授業をする。
確か、2人の先生がやってたのかな。
当然、普段のような授業になる訳がない。
先生方も自分の言葉が通用しないと思って、色んな話をして反応を探るような感じ。
1人の先生は最初センター試験の過去問解説をやってたのに、途中から読書や自分の身の上話に逸れていった。
もう1人の先生は、英会話で使う1つのセリフを繰り返し使って(しかも1人の取っ付き易そうな子に集中して)盛り上げようと必死になり、最後は自分の苦労話で情に訴えようとする。
これは、皮肉や批判で書いてるのではない。
そうなるのは当り前だと思っている。
テレビのバラエティ企画だからね、極端な設定で面白おかしく演出してあるってのは当然としても。
先生の言葉は通じてないなーというのがほとんどだと感じたね。
ここで言いたいのはね、どんなに偉い先生でも目の前の生徒を見てそれに合わせて内容や伝え方を考えないと授業は成り立たないってこと。
オレの授業はサイコーなんだからお前らしっかり聞いてろよーなんて、(まー、そんな先生はまずいないだろうけど)あり得ない話だよ。
今のは極端な例だったけど、細かなことでも似たようなことは言える。
自分はよく見てる。
自分はよく分かってる。
自分はとても努力してる。
自分はスゴく子どもが好きだ。
ここはサイコーの塾だ。
こんな気持ちは「慢心」と背中合わせだってことをいつも意識しておくべきだと思っている。
自分自身がね。
他人がどうだっていうのは、ハッキリ言ってどうでもいいことなんだ。
自分がどうかってこと。
「ホクトに来たら、ホクトのルールで勉強してよね」ってことは常に要求してる。
でも、すぐに反応出来る子ばかりでもなかったりする。
気持ちはあっても言葉が出ないとか。
それを早急に態度で求めて力づくで従わせることが可能なのか、はたまたそれが良いことなのか。
何でもかんでも、積極的にオープンに活動すること、常に前に進むこと、それらが絶対正義だと信じて疑わない。
そんな考えが教育にぶち込まれたら、・・・なんかゾッとするなー。
色々いるんだよ、人は。
色々あるんだよ、気持ちと行動は。
そういうのを色々考えながら悩みながら、目の前の相手を見て、うだうだとやっていく。
それで、どう変わっていくのかなってくらい。
それをどんだけ見てあげられるかな、共感していけるかな、って感じ。
今日から、新中1の春期講習だな。